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出された欲求の中で最も正当なものは、自分自身の主人になるという
欲求だ。なぜなら、これがなくては他のいかなることも不可能だからだ。 この欲求に比べれば他の欲求はみな単なる子供じみた夢か、たとえ叶 えられたとしても全く無駄な欲求にすぎない。 たとえば、誰かが人々を助けたいと言うとしよう。人々を助けるには、 まず自分の面倒をみられるようにならなければならない。多くの人は、 単なる怠惰から他者を助けるという考えや感情におぼれるのだ。彼らは 自己修練をするには怠惰すぎる。それと同時に、自分は他人を助けるこ とができると考えることは、彼らにはたまらない快感なのだ。これは自己 に対する虚偽であり、不誠実でもある。もし自己をありのままに見れば、 彼は他人を助けようなどとはそもそも考えないだろう。そんなことを考え るのを恥ずかしくさえ思うだろう。人類への愛、利他主義、どれも非常に 綺麗な言葉だが、それらは自分の選択と決断で愛するか愛さないか、利 他主義であるか、利己主義であるかを決めることができるときにだけ意味 をもつのだ。そのとき彼の選択は価値をもつ。しかし全然選択しないのな ら、あるいは彼自身違うものになれないのであれば、または偶然に身を任 せているのであれば、すなわち今日は利他主義者、明日は利己主義者、 また明後日は利他主義者というようにコロコロ変わるのなら、そのうちのど れであろうと全く価値はない。他人を助けるためにはます利己主義者、意 識的なエゴイストになれなければならない。意識的なエゴイストだけが他 人を助けることができるのだ。今のままでは我々は何一つできない。人は エゴイストになろうと決心はするが逆に自分の最後のシャツを与えてしま う。あるいは最後のシャツを与える決心をしたのに、今度は逆に相手の最 後のシャツを剥ぎ取ってしまう。あるいは自分のシャツを誰かに与えようと 決心はするが、実際には誰か他の人のシャツを奪って与えようとする。そし て、もし他の人がシャツを譲ろうとしないものなら腹を立ててしまう。これこ そ最も頻繁に起こることだ。 何にもまして、困難なことをするためには、まずやさしいことができるよう にならなければならない。一番難しいことから始めるのは無理だ。 奇蹟を求めて/P.Dウスペンスキー著よりグルジェフのコメント抜粋
by aqua_santa
| 2004-09-27 07:41
| 哲学
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